親なるもの 断崖 昭和初期の市民文化について

親なるもの 断崖当時の国内について書いてみたいと思います。

 

昭和初期の風俗について(ウィキペディア)

アメリカやフランスの新しい文化が流入、受容される中、日本でも西洋の影響を独自に消化した文化が醸成されていった。

大正時代に引き続き竹久夢二の美人画や高畠華宵の美少年・美少女の挿絵などが絶大な人気を得、北原白秋、西條八十などの作詞による抒情詩が愛読・愛謡された。また『改造』、『キング』、『文藝春秋』などといった総合雑誌や、岩波文庫や円本と呼ばれる廉価な書籍が刊行され、教養の大衆化が進んだ。

川端康成、横光利一などの新感覚派文学や、吉川英治、中里介山などの大衆文学が出現。雑誌『新青年』などでは江戸川乱歩や夢野久作などの怪奇幻想趣味、あるいはエログロナンセンスと呼ばれる作風が一世を風靡し(この分野の開拓者は大正時代の谷崎潤一郎である)、また日夏耿之介が東西古今の怪奇・幻想作品の紹介を行った。

黄金バット、フクちゃん、のらくろ、少年探偵団シリーズといった児童向けの娯楽作品が隆盛を極めたことも記憶に値する。

その他、映画では嵐寛寿郎、大河内伝次郎、阪東妻三郎といった時代劇スターが現れ、音楽では服部良一、古賀政男や中山晋平と言った作曲家や淡谷のり子、藤山一郎、東海林太郎、ディック・ミネなどの歌手が活躍した。川畑文子やベティ稲田、バッキー白片ら日系アメリカ人が本場仕込みのジャズやハワイアンを武器に活躍したのも、この時代の特徴である。

大劇場の建築ラッシュが起こり、都心部に東洋劇場、日本劇場、東京劇場、宝塚大劇場、東京宝塚劇場、日比谷映画劇場が建設された。

 

生活について

また生活様式も大きく変わり、服装も女性は着物(和服)に日本髪といったものから洋服を着、断髪し帽子をかぶるといったことが一部の勤め人の女性では一般に浸透しつつあり、それにともない女性の社会進出も進み、「バスガール」と呼ばれたバスの女性車掌やウェイトレス(当時は女給と呼ばれた)など職業婦人が出現するようになった。最先端の洋装を着た女性は「モダン・ガール(モガ)」と呼ばれるようになった(男性版の「モダン・ボーイ(モボ)も存在した)。

市民の足として鉄道会社が開発する沿線の土地には住宅が建てられ、そこに暮らす人々がターミナル駅のデパートで休日に買い物などに立ち寄るといった市民生活が一般的になったのも昭和初期からであった。この時期に開店した主なデパートとして、世界初のターミナル駅デパートである阪急百貨店を始め、三越百貨店、大丸百貨店などが挙げられる。都心部では地下鉄の建設が始まった。日本における最初の地下鉄である「東京地下鉄道(現・銀座線)」は1927年(昭和2年)に、続いて「大阪市営地下鉄(御堂筋線)」が1933年(昭和8年)にそれぞれ開業している。

洋行帰りの実業家らが洋食のレストランを開き、都心で成功をおさめるようになったのもこの頃である。当時のカフェーは独身男性の利用が主であったが、いずれもモダンさが受け、人気が高かった。ライスカレー、オムライス、カツレツなど現在では定番となった洋食メニューが、好んで賞味された。またお子様ランチ、森永ミルクキャラメル、三ツ矢サイダー、カルピス、インスタントコーヒー(ネスカフェ)、サントリー角瓶など、現在でも愛食・愛飲される商品が数多く開発された時期でもある。

前述の鉄道沿線開発では阪急電鉄の小林一三、東武鉄道の根津嘉一郎の近代田園都市建設は名高い。宝塚大劇場や甲子園球場が開場したのはこの頃である(阪神間モダニズム)。

モダニズム建築やアール・デコ様式が持てはやされ、旧山邑家住宅、甲子園ホテル、同潤会アパート、聖路加国際病院(旧病院棟)、伊勢丹新宿店、旧朝香宮邸などが建設された。

 

うんちくはこの辺にして笑

あらすじいきましょう!!

親なるもの 断崖 7話ネタバレ

7話について

駆け落ち騒動から梅は道子と名乗り、隠し部屋に入れられていた。

そんな梅が妊娠していた。

中島聰一の子か、あるいは駆け落ちの時に強姦された男の子か・・・

誰の子ともわからない子供を梅は出産する。

しかし妊娠中も折檻や暴行を受けていたため死産してしまう。

 

出産直後から客を取ることを強いられる梅。

そんな梅に身請け話が入る。

女将は隠し部屋の女郎が身請け話などそれ以上の幸せはないというが、

梅に惚れている直吉はその話を梅にするか悩んでいた。

 

そんな中、直吉は軍人から腹を刺されてしまう。

軍関係者が相手だと手が出せないこの時代。

直吉は医師の手当てもあり一命を取り留める。

 

直吉が刺されたと梅に伝えたのは服番頭の隆太だった。

隆太は直吉の梅への思いを伝え、直吉と一緒になるように梅にすすめる。

 

一方芸妓九条として名を馳せている武子。

 

「あの芸妓がいると必ず商談がうまくいく」

 

と北海道中の評判を集めていた。

 

傷も癒え、退院した直吉は隠し部屋の梅に会いに行く。

そして梅に身請け話をする。

 

しかし梅の返答は

 

「おらをもう一度幕西一の女郎にしたててみろ!直吉!!」

 

だった・・・

 

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親なるもの 断崖 遊郭について

そもそも遊郭とは?

公許の遊女屋を集め、周囲を塀や堀などで囲った区画のこと。(Wikipedia)

 

いつからあったの?

男尊女卑の時代に女性が稼ぐには自分の体を商品とするしかなかったようで、

今でいうフリーランスで女郎をやってる人は古来よりいたみたいです。

決まった場所があるわけではなく、港や宿場など人の集まる場所に女郎も集まってきていたそうです。

 

政府公認の遊郭というシステムが確立したのは安土桃山時代、

豊臣秀吉が歌舞伎役者の林又一郎という人の願い出に許可したのが始まりと言われています。

その時にできたのが大坂の新町遊郭と京都の島原遊郭とのこと。

ちなみにこの2つと江戸の吉原遊郭の3つが三大遊郭だったそうです。

 

どのくらいの数あったの?

江戸時代の1678年に『色道大鏡』という今でいうガイドマップには全国25箇所の遊郭が記してあったそうです。

 

親なるもの断崖の時代、昭和4年の統計では実に511箇所もあったみたいです。

そして北海道が45箇所と一番多かったそうです。

 

遊郭写真集

 

吉原遊郭の新年」(ベルリン「北斎展」出展作品)
1811年頃。5枚続の左半分。大判錦絵5枚続。各36.9×25.0 cm。かつしか北斎画。版元:伊勢屋利兵衛。墨田区蔵。

客待ちをする吉原遊郭の遊女(Wikipedia)

屋内から見た遊女の後姿(東映太秦映画村)(Wikipedia)

明治5年(1872年)頃の東京の吉原遊郭(Wikipedia)